坂越の歴史

坂越の歴史について紹介いたします

坂越の歴史
  • 丸山南の猪壷谷に紀元前一万年頃の縄文遺跡があり、小島、生島、高野には5世紀中頃から7世紀初めの古墳がある。 世阿弥の風姿花伝書には644年秦河勝が坂越浦に漂着した伝承がかたられている坂越という地名は793年の東大寺文書や石崎氏所蔵の文書に初めてあらわれる それらの文書からすると奈良時代には、坂越郷という集落名が使用されていたと推定される当時の坂越郷は目坂、木津、高野、坂越浦以南一帯と那波をあわせた地域であったようだ このころの赤穂郡一帯には、養蚕 機織りを生業とする 古墳時代の渡来人秦一族が蟠踞していたようで、坂越郷に居たと思われる秦大炬、平城宮跡出土木簡に二名、朝鮮群載に十二名の秦姓があらわれる。これら秦氏は奈良中期より平安中期赤穂郡司層として活躍している。坂越郷は1037年近衛家の荘園となり建武動乱のころまでその支配が続いた。このころ坂越郷は坂越荘と石塩生荘(赤穂荘)に二分される。荘園には在地の荘官が任命され、鎌倉幕府はそれらを地頭に任命するか、御家人を派遣した このころ地頭と土豪・荘官の間で合戦などが起こり混乱が続いた。この鎌倉末期に法眷深首座が常楽寺を創建している このころ赤松氏との戦いで傷ついた児島高徳が妙見寺で戦傷を養っている。赤松氏は赤松村を本拠として坂越・那波・室津などを押さえて、海賊的一面をもつ武士団として成長したと伺える。満祐の時、嘉吉の乱で一時期没落するが 残党が南朝より神璽を奪い北朝に奉還した功により、政則が播備作の旧領を再興した国期には宝珠山十六坊が焼失(1458年)し、妙道寺が学西により創建(1532)されている。また1565年には宣教師フロイスらが堺への船待ちでしばらく逗留している羽柴秀吉の中国征伐により赤松政範らが滅びる。その際毛利軍は700艘の兵船を室津から坂越にかけて派遣している <
  • 坂越の歴史中性から近代
  • 延宝二年(1674)の人口は2079名そして元禄4年(1691)は2121名戸数は422軒で廻船業者は33名がいた。また浦方では田畑はほとんどなく住民のほとんどは農業以外で生活を営んでいた。つまり坂越浦の廻船業者以外は漁業を営んでいた
  • また赤穂藩は塩業が盛んで塩屋・尾崎・新浜村などでは江戸 大坂への塩輸送に従事していたので 坂越浦の廻船業者はより広い交易範囲で自乗として活躍した。