坂越の廻船について

ここ坂越浦は昔から風待ちの港として知られ、江戸期には良港として廻船業が発展した。元禄四年(1691)には坂越浦には2121人、家数422軒、船数118隻が存在しそのうち廻船業者が27名いた。その船も比較的大きな十五端帆15隻、十六端帆8隻、十七端帆1隻を所有している者がいた。坂越浦では各人の所有船は多い者で3隻で多くの者が1~2隻であったことから「直乗」として使用していたものと思われる。また廻船の遭難記録から見ると、元禄六年(1693)に太郎左衛門の所有廻船が豊後国臼杵領楠屋浦で遭難、元禄七年には渋谷八左衛門が出羽国酒田で遭難。また明治期にかけて日本全国での記録が残っている。これから察するに坂越浦の廻船業者は日本各地と運輸業を営み、または購入したものを売っていた。また坂越浦にある無縁仏を安置する他所三昧の記録を見るに、南は鹿児島など各地の人がここ坂越に眠ることから廻船の出入りが盛んであったことが伺える。坂越浦の廻船業者は、正徳六年(1716)より肥前田代米の輸送仲間に加わり、18世紀中ごろまで木綿・紙などを仕入れ、西国、北国(出羽)で売却した後、北国米、肥前米を大坂・堺へ運んでいた。この頃港町としての機能も発展し、坂越浦に入港する船のために30軒ほどの船宿が営まれ、船乗り相手の商売も盛んに行われていた。安永五年(1776)の「坂越浦入港帳」には、この年の四月十二日から二十一日までに入港した船籍は畿内(摂津4隻、和泉1隻、紀伊1隻、播磨5隻)・中国(備前12隻、備中3隻、備後2隻、安芸3隻、周防4隻、石見2隻)・四国(讃岐12隻、伊予7隻、阿波5隻)・九州(豊前5隻、豊後10隻、肥前4隻、肥後2隻、筑前2隻、筑後1隻)・その他(尾張1隻、不明4隻)とわずか十日ばかりで90隻もの入港があった。
18世紀末ごろから日本海海運の繁栄を背景に北前船が台頭し、北国産物輸送の主導権を奪われ、坂越廻船業者の中には経営不振に陥る者もいた。そして19世紀以降は、赤穂の塩問屋などから塩を購入して江戸へ廻送し利益を上げていた。