秦氏について

「記紀」によれば十五代応神天皇の時代に新羅人が倭国にやってきたとある。秦造の祖、漢造の祖、及び酒を醸知れる人、名仁番、亦の名須須許理ら参り渡り来る。 とある。 応神天皇の時代に神功皇后が「三韓征伐」を行い、朝鮮半島の諸国を屈服させた。その後大陸との交通が活発化したとある。 平安期に編纂された「新撰姓氏録」によれば始皇帝の子孫である弓月君が秦氏のはじまりとしている。ただ現在ではその所伝はあきらかではない。 「随書」倭国伝に七世紀の初めごろに倭国に中国からの移民が集住する所があったという。「秦王国」である。これが倭国のどこにあったかはあきらかではないが、播磨の赤穂ではないかという説も疑えない。 秦氏は出自・来歴を異にする渡来系集団の集合体として成立した組織であったと推測される。 雄略朝において秦の民の人口は 18.670 人いたと「新撰姓氏録」にある。しかし 後の日本初の戸籍ともいわれる「欽明記」によれば 7.500 戸・ 170.000 人もの人口を有していた。当時の日本の人口が 6000.000 人と推定されることから、相当数の秦氏が倭国にいたとされる。 秦氏の本拠地は京都の山背国であるが、北は下野国・上野国から南は豊前・筑後国まで広く分布し、特に遠江・伊勢など東海地方から越前・若狭などの北陸地方、美濃・近江、播磨・吉備そして周防・阿波・讃岐・伊予九州の豊前・筑後に多く在住していた。 非貴族的、非官僚的で、殖産興業に従事した在知的土豪氏族であった。 秦氏族長の支配下には、渡来人の秦人と倭人の秦部がいてどちらも農民で、王権に貢献した。 日本の「神道」は日本独自の文化ではなく中国の影響を色濃く受けている。秦氏も伏見稲荷大社や松尾大社を奉神社した。つまり秦氏や鴨氏などの渡来人が神社と深い関わりを持っていた。

秦氏は「日本書紀」に三度登場する。推古十一年十一月条(聖徳太子から仏像を賜り、蜂岡寺を創建したという記事)、推古十八年十月条(新羅・任那の使者を出迎えた人物のひとりとして)、皇極三年七月条(大生部多の常世神信仰を退治した時)である。

この他聖徳太子の伝記である「上宮聖徳太子伝補闕記」と「聖徳太子伝曆」に蘇我・物部戦争の軍事顧問(太子の側近)として活躍したと記載されている。このころ河勝は大臣・大夫に次ぐ政治的地位を獲得し、公的な役割を担っていたと推察できる。 皇極天皇二年十一月、蘇我入鹿が、斑鳩にいた聖徳太子の長男山背大兄王一族を襲撃し、王は背後の生駒山に逃れたが、その後戦を嫌い斑鳩に戻り、一族と共に滅ぼされた。聖徳太子一族はこうして滅んだ。つまり秦氏は深草にいたにもかかわらず大兄の王を助けようとはしなかったのである。

大津父(深草の秦氏) 伏見稲荷の祭祀から狩猟祭祀から農耕祭祀へと移行したことが伺える。

秦氏と坂越 「播磨国赤穂郡大原□・五保秦酒虫赤米五斗」と記された木簡が平城宮跡から発見されている。また「平安遺文」第一巻、延暦十二年二月二十九日付け「播磨国符案」年月日不載「東大寺牒案」、延暦十二年四月十七日「赤穂群坂越神戸両郷解」によれば、坂越群内の墾生山と呼ばれる塩山の開発を、在地土豪の秦大炬が行おうとした記実がある。他にも坂越群の郡司に秦氏なる人物を記す子文書が発見されている。 また山背の「大酒神社」の元名となる「大辟」という神の名は「大避」と共通する。