.古代の海運から北前船

このエントリーをはてなブックマークに追加

昨週、加賀市へ行き気になったことがある。
私の友人がなぜか「記紀」について本を出版したため古事記などにあまり興味をもたなかったのだが、友人に失礼なのでちょうどその本に目を通したばかりだった。(辻清貴著「解体的復元『古事記』『日本書紀』アマゾンキンドル本)
加賀市内をバスで走っていると神社がそこかしこにあるのだ。 「白山神社」「 武甕槌《たけみかづち》神社」「菅原神社」「恵比寿神社」。以前長野正孝氏の著書で「古代史の謎は海路で解ける」という本を読んだことがある。その筆者は「倭の五王」は大和の天皇ではなく、葛城《かずらきの》襲津彦《そつひこ》をルーツとする蘇我氏の先祖ではなかったかとし、その国は船を使って交易をしているため内陸国ではなく、「宋書」によれば倭王武は「北陸から東北地方の蝦夷の五十五カ国を征服した」とあるが、九州から蝦夷地を往復するだけで半年かかる。秋になれば日本海は航行できない。だから敦賀から丹後付近のどこかにあったとするのが妥当だとしている
まさしく「翡翠の道」と「鉄の道」が交わるところである。私が興味を持っているのは船の交易で、その当時の船は人力船で帆はまだ発達しておらず、補助的に四角帆が使われていた程度である。(豊岡市出石の袴狭《はかざ》遺跡の線刻画やアイヌ船に見られる)そういった船で東北・蝦夷地域と交易をし、豊富な食料を得ていた。二世紀から八世紀のころである。北前船以前から日本海側では蝦夷地との交易は行われていたのである。この頃の船は当然地乗り船で岩壁が続く能登半島や丹後半島は船で航行することはできず、船を平地で曳いて半島を渡ったとされている。
日本には竜骨(船の芯となる骨材)が造れるような堅い木がなかったため大きな構造船は造れなかった。中国沿岸においても同様で遣唐使船が多く遭難したのもそれが一要因である。構造船でないため三角帆などが発達せず、風に向かって進むことができず、逆風が吹くと港に入り風待ちをした。また日本海・東シナ海はよく荒れる海としても有名で、私も日本海へ大物を求めて、時々釣りに行くが、秋から冬にかけては勿論、夏場でも船が出れない時がある。
和船が逆風でも航海できるようになったのは、北前船(弁財船)が発達してからで(竜骨に相当する航というものがつかわれていたが肋材はなかった)ある。これで地《じ》乗りから沖乗り廻船が可能となった。しかし効率を重視し甲板を設けなかった(積載量を増やすため)ため船体の耐久力が弱く、以前として海難事故は多く発生した。しかし航行能力は飛躍的に良くなり大坂から江戸までは平均十二日、最短六日で航行した。十八世紀末では平均五日となっていた。そのため物資過剰となり航行規制が出たほどであった。
その後 日本の廻船は富国強兵のもとに西洋文明が大波のごとく押し寄せて、船も機械船になり大型和式廻船はその姿を徐々に消していった。

コメントを残す